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1912年から1951年までのチベットは、中央チベット〔ガリ地方、ウー・ツァン地方、カム地方の西部など。〕に排他的実効支配を確立しチベット全土の統合と独立国家としての国際的承認の獲得を目指すチベットの政府「ガンデンポタン」と、清朝からアムド地方〔清朝は青海地方および甘粛省の鞏昌府、四川省の松潘庁・杂谷庁・懋功庁などに区分)〕およびカム地方東部〔清朝は四川省の雅州府・寧遠府、雲南省の麗江府などに区分。カム地方の西部はガンデンポタンのドメー・チキャプの管轄。〕のチベット人諸侯の支配権を受け継ぎ中央チベットを「西蔵地方」として領土に組み込むことを目指す中華民国および中華人民共和国とがせめぎあう舞台となった。 == 独立宣言とシムラ会議 == === 独立宣言 === 辛亥革命と清朝崩壊に続いて、チベット軍は奇襲によってチベットに駐屯していた清国軍守備隊をチベット内から追い払った。続いてラサに駐在していた清の役人はチベット中心部での清軍の降伏と撤退が盛り込まれた「三点合意」にサインを強いられた。ダライラマ13世は1910年に清軍の進攻があって以来インドに逃れていたが〔Goldstein 1997, p. 28〕、1913年早くにラサに戻った。そして「聖職者をパトロンとした中国人のチベット植民地化の意図」を非難し、「我々は小さい、宗教的な、独立国家である」と述べた、宣言を発布しチベット中に広めた。〔"Proclamation Issued by His Holiness the Dalai Lama XIII (1913)" 〕〔Shakya 1999, pg. 5〕 中国の臨時大総統となった袁世凱はダライラマに彼の宣言を取り下げるようにと電報を送った。ダライラマはこの書面を突っぱね、「チベットにおいて世俗と聖職の両面での統治の行使を目指している」〔Goldstein 1997, p. 31〕と返答した。1913年、ダライラマは中国皇帝とチベットの関係は「後援者と聖職者の関係であってどちらかからどちらかへの従属に基づいたものではなかった」〔と明言された声明を発し「われわれは小さい、宗教的、独立国家である」〔との宣言を発した。 1913年早期、アグワン・ドルジェフと二人のチベット人代表〔Udo B. Barkmann, ''Geschichte der Mongolei'', Bonn 1999, p380ff〕はウルガで両国の中国からの独立の宣言を互いに承認したモンゴル-チベット間の条約に署名した。(蒙蔵条約)後にダライラマ13世はイギリスの外交官に、アグワン・ドルジェフはチベットのためのいかなる条約も締結する権威立てをしていなかったと語っている。〔Grunfeld 1996, pg. 65.〕〔Bell 1924, pp. 150-151〕この条約文は公表されていなかったため、最初はこの条約の存在が疑われていた。しかし、1982年にモンゴル語の書面がモンゴル科学大学で公表された〔 。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チベット (1912-1950)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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